フェイクニュースに対抗するために、なぜ物語構造の威力を利用すべきなのか

ランディ・オルソンは、科学者たちがすでに物語構造を使っていると言う。今こそ、誤情報と闘うためにその威力を発揮するときだ。

フェイクニュースに対抗するために、なぜ物語構造の威力を利用すべきなのか

人々に科学的なコンテンツを受け入れさせるには大変な労力を要する。結局のところ、多くの人々にとってそのようなコンテンツは興味をそそるものではないし、また、それらの情報を発信する人々も、素人の聴衆を惹きつけるほどの伝達手段をもっているわけでもない。このことがもっとも明白になったのは、新型コロナウイルスのパンデミックのさなか、フェイクニュースや陰謀論が大衆を魅了したときだ。  

しかし、なぜ科学的な真実は十分な注目を集めないのだろうか。なぜ、フェイクニュースが成功するのに、サイエンスコミュニケーションは失敗するのだろうか。 

その答えを求めて、海洋生物学者から映画監督に転身したランディ・オルソンに話を聞いた。ランディは自身のもつ科学的な知識と、ビジネスエンターテイメント業界が精通する物語構造の力を融合させた本をいくつか著した。科学者としてのバックグラウンドを生かして短編映画やドキュメンタリーの脚本・監督を手がけるかたわら、科学など情報量の多い分野のコミュニケーションに関する本を10冊出版している。202112月、私たちはランディにインタビューし、パンデミック下のサイエンスコミュニケーションについて、どこで間違った方向に進んだのか、ビジネスおよびエンターテイメント業界からどのようなことを学べるのかを尋ねた。  

本記事は、2時間以上にわたって行われたオンラインでのインタビューを分量と内容に応じて編集したものである。 

ランディさん、あなたは科学者、正確には海洋生物学者でした。その後、映画製作に転身されています。これまでのサイエンスコミュニケーションを見てきた経験から、どのようにすればコンテンツを魅力的にできるかをご存じかと思います。なぜ、誤った情報が科学的な情報よりも支持を集めるのかご説明いただけますか? 誤情報のほうが面白い、あるいは魅力的なのでしょうか?

すべて、物語(ナラティブ)構造の威力によるものです。ビジネス・エンタメ業界は1世紀以上にわたって、一般大衆を惹きつけ、さらには牽引するためにこの力を身につけてきたのです。しかしパンデミックが発生し、科学界は自分たちの専門知識を追求することに失敗し、悲劇的な結果となりました。科学界がなすすべもなく立ちつくすあいだに、「パンデミックは悪の製薬会社が金儲けのために、あるいはどこかの国が化学兵器としてつくりだしたものだ」というようなフェイクニュースが増殖しました。 

アメリカ、ひいては世界で起こっている、パンデミックをめぐるこの災厄はに始まったことではありません。私は1970年代から科学を学んでいます。「反科学(アンチサイエンス)運動」とでも言いましょうか、科学がを言おうとも気にしない人々がいます。かれらは自分たちのバージョンの真実をもっています。その運動は1970年代80年代には取るに足らない、笑いとばせるたぐいのものでした。しかし1990年代から2000年代の初めにかけて、ただの面白おかしい無害なものではなくなり、メインストリームに入ってきたのです。今日、「反ワクチン」運動(定義としては反科学に分類されるもの)はアメリカだけで数千万もの支持を集めています。 

現代の科学者たちはこのような変化への準備ができていませんでした。かれらは科学を信じない人々に科学を伝える訓練を受けたことがありません。20世紀の大半にわたり、私たちの社会では科学が権威をもっていたので、科学者たちは自分たちの考えが攻撃されるなんて想像もしなかったのです、 

2005年、深刻な反科学主義のエピソードを耳にし始めるようになりました。進化生物学を研究する、私の古くからの友人たちが、スピーチの最中に攻撃されたというのです。かれらの講演中、人々が突然立ち上がり、嘲笑し始めたそうです。  

2006年、私は『Flock of Dodos: The Evolution-Intelligent Design Circus』(ドードーの群れ:進化とインテリジェント・デザインのサーカス)という映画を製作しました。進化論者がこのタイトルを見たら「よし、ついに我々を攻撃してくる連中に反撃し、こてんぱんにしてくれる映画ができた」と思うだろうことを私は当初から予想していました。  

Source: IMDB 出典:IMDB

けれど私の映画はそのようなものではありませんでした。そうではなく、アメリカでの進化論教育をめぐる激しい論争を批判的に検証するものでした。私が呈した疑問は「どちらが大きなドードーの群れなのか?」というものです。ばかげだインテリジェント・デザイン思想をもつ反科学的な人々か、それとも、公のイベントや討論会で群れに囲まれる科学者たちのほうか?  

その映画は非常に好評で、Showtime(訳注、アメリカのテレビ局)で2年間、全国放映されていました。そこまで人気を博した理由はそれがユーモアに富んだ作品だったからでしょう。事実を分析的に説明しただけのものではありません。幅広く楽しんでいただけるものですが、もっとも重要なのは物語構造がしっかりしていたことです。ひとつの疑問(インテリジェント・デザイン運動の背後には誰がいるのか?)を中心として、その解(運動のスポンサーは誰かという答え)を探し出す旅路が展開する、という構造でした。さらに、この映画は単純な事実、つまり、科学者たちはすべての事実を知っているのに、一般大衆に自分の話を聞いてもらう術がない、ということも示しました。

大衆へのコミュニケーションの場合、たいていは単純化と反復に帰します。簡単なものを考えだし、何度も繰り返す必要があるのです。しかし残念なことに、科学の世界ではこのような基本的な物語の原則やふさわしい考え方が欠如しています。その結果、今、政府(と主要な科学者)への信頼ほとんど失われているのです。

ストーリーテリングという観点から、科学者、政治家、公的機関の、パンデミック下での緊急のコミュニケーションをどう評価しますか?

2016年、アメリカでは反科学を表明する大統領が選出されました。彼が就任して最初に行ったことは、気候変動に関する枠組みであるパリ協定からアメリカを離脱させることでした。これは、科学界全体に対する大きな警告でした。大統領は科学などまったく気にしないと示したのですから。 

こうして反科学的な大統領が誕生し、国内最大のマイクを通して、さまざまなトピックに関する反科学的な持論を吹聴しているのです。科学界はこの事態にどう対処すべきか分からず、無策でした。

オバマ政権はパンデミックのためのプログラムを入念に用意していたと指摘する人々もいました。しかし、どのようなプログラムにも、一般大衆向けのコミュニケーションに関する計画は含まれていませんでした。そこが弱点なのです。科学界はマスコミュニケーションを理解していません。

アメリカはメディア社会であるのに、科学者たちはメディアを理解していません。その結果、必要な解決策の半分しか実現できていないのです。かれらは研究はできても、それを伝える方法が分からないのです。 

バイデンが当選したとき、彼は最初に諮問委員会を立ち上げました。その委員会には最終的に16名の専門家が参加しましたが、かれらの資格は、医学博士公衆衛生の研究者ばかりです。コミュニケーション界からの人選はありませんでした。

予想通りかもしれませんが、諮問委員会は、ワクチンを作るという非常に革新的な仕事を最前線で支援してきました。その点ではすばらしかったのですが、かれらが怠ったのはもうひとつの部分です。つまり、ワクチンが手に入ったら、次はどのように人々にワクチンを接種させるか、という点です。

202010月、バイデンの諮問委員会の最終メンバーの1人で、ミネソタ大学感染症研究・政策センター所長のマイケル・オスターホルム博士が、NBCの「Meet the Press」という番組でインタビューに答えました。そのインタビューで彼は、自分たちのコミュニケーションが下手で、声を合わせて発信することに失敗していると述べました。つまり、テレビにはいろんな人が出演して互いに矛盾したことを言っているので、一般大衆は誰のアドバイスを聞けばいいのか分からない、ということを示したのです。

さらに彼は、物語やストーリーテリングの力を生かしきれていないとも指摘しました。その言葉に私は興味を引かれ彼に連絡をとりましたその数日後には彼と電話で話していました。私は4ヶ月間ほど彼のポッドキャストを手伝いました。彼がパンデミック当初から続けている週刊ポッドキャストの原稿の一部を私が書いていたのです。

テレビに出演している著名な科学者のなかで、私が見たところでは、彼だけがこの問題のもうひとつの局面について話していました。つまり、ワクチン接種の必要性を一般の人々に効果的に伝えることができなければ、これらのワクチンに恩恵はあるのか、ということです。 

あなたの作品では、「物語のスペクトラム」という概念と、「AAA(And, And, And:それで、それで、それで)」「ABT(And, But, Therefore:それで、けれど、だから)」「DHY(Despite, However, Yet:にもかかわらず、しかし、だが」のテンプレートが紹介されています。人々がワクチンに関するコミュニケーションに不信感を抱いたり、副反応を恐れたりする現象を説明するのに、それらの概念が有効なのでしょうか?

そうです。まずは、DHY構造の破壊力についての研究が必要です。DHY構造では、複数の物語の筋があまりにも急速に紹介されるため、聞き手が混乱してしまいます。こういう感じです。「ワクチンが完成しました。けれど、政府がつくったものです。テストをする時間が十分になかったにもかかわらずね。しかし、いくつの研究所がそのウイルスをつくったのです。だが、代替医療の場合はどうでしょう」  

Despite(にもかかわらず)、However(しかし)Yet(だが)という語はBut(しかし)の次によく使われる逆接の単語で、これらの言葉はそれぞれが物語の筋を表すので、複数の脈絡がうまれるのです。物語の内容が多すぎると難解になり、混乱を招きます。 

たとえば気候変動について考えてみましょう。それは90年代から2000年代初頭にかけて問題化してきましたが、一般大衆はまだよく分かっていませんでした。私が耳にし始めたのは2002年です。2003年にはHBOであるドキュメンタリーが作られていました。 

それから2005年の夏、5つのハリケーンがアメリカを襲いました。当時、環境保護運動にかかわる多くの人々が大騒ぎし、気候が変わったので毎年ハリケーンに襲われる、とまで言いだしたのです。しかしその後の10年間、大きなハリケーンはやって来ませんでした。にもかかわらず、パニックは収まらず、結局はアル・ゴアが中心となった映画『不都合な真実』が急ごしらえされたのです。  

 

Source: IMDB 出典:IMDB

その映画はあまりにも急いで製作されたため、物語構造が貧弱です。冒頭から、災害ばかり繰り返されます。物語構造に目を向けると、「合意」「否定」「結果」という物語の3つの基本進行が欠落していることが分かります。  

いろんな環境問題に触れる前に、最初に伝えるべきは「合意」なのです。「ここで私たちが合意できることはなんだろうか?」と言って、視聴者に近づくのです。

この手の映画の冒頭では、信頼できるはっきりとした声で、「昔々、地球全土を脅かす、巨大な大気圏の危機がありました。しかし地球上の人々が一丸となって問題を解決したのです。その問題とは、オゾンホールです。解決策はモントリオール議定書でした。まだ完全に解決したわけではありませんが、私たちは正しい方向に向かっています。その議定書はこれまでまとめられた環境保護協定のなかでも最大級のもので、気候科学の威力を示しています」と語られるべきでした。  

そのような出だしにすると、私たちが自然界を理解するうえで気候科学者たちが非常に多くの恩恵をもたらしてくれたということに誰もが納得して物語を始められたでしょう。つまり、地球温暖化という新たな状況のなかで科学者を信頼すべきだ、と視聴者に思わせるのです。 

これがコミュニケーションの基本心理です。最初に問題だけを投げつけられても、脳はそれを処理するようにはプログラムされていません。

新型コロナウイルスをめぐるメディアの報道は、不正確な情報や偏向報道だらけでした。あなたの著書には、人は自分の立っている場所やどこへ進むべきかを誰かに気づかせてほしがる、と書かれています。社会的な緊急事態のもとで、恐怖や不安から、話に尾ひれ背びれをつけたり、「しかし」「だから」を取り除いて話を作り替えたりして、その結果、誤った情報を拡散してしまう人たちがいるのかもしれません。

メディアの原動力は、社会的な責任ではなく世間の注目と金銭的な利益です。メディアの世界にも良心をもち善い行いをする人たちがいることは分かっています。しかし一般的に、科学界にとって、メッセージを効果的に発信しようとすることは、終わりのない戦いなのです。

メディア界が求めるのは、世間の耳目を最大限集めることのできる、センセーショナルなビッグニュースだけです。たとえば「殺人バクテリア、地元の公園に出現。子どもたち皆殺しに」というような。おおげさな表現躊躇なく使うため、そこでいつもバトルになるのです。広報活動はすべて、戦いにすぎません。物語を支配するための全面戦争なのです。

そしてそこに問題があります。科学界はこの「物語」という言葉をほとんど理解していません。科学者たちは単に情報を配るだけで、物語構造の重要性についてはまったくの無知です。そしてその物語構造の中核には、私たちがこの10年間作り続けてきた「ABTAnd, But, Therefore:それで、けれど、だから」フレームワークがあります。 

科学者や公の広報担当者が効果的にコミュニケーションをとるには何が必要でしょうか?

科学界とメディア界(あるいは、物語の世界と呼ばれるもの)のあいだには正反対の考え方があります。科学者は大きな数字を好みます。実験では、大きなサンプルサイズを求めますし、サンプルサイズが大きくなればなるほど安心感を得られます。  

嫌いなものがあるとすれば、それはサンプルサイズが小さい研究です。大規模な科学集会に参加し、非常に興味深く、刺激的な発表を聴いても、その研究がn=2であることが分かると、一日が台無しになります。かれらは観察と測定を2回しただけで、それを大きな話にしているのです。そのようなものを科学者は文化的なレベルで忌避します。 

私は科学者として、「エピソード」と名付けられるような珍しい事象にはつねに疑いをもつよう訓練されてきました。たとえば、「こんな出来事を一度目にした。ウサギが木を跳び越えたんだ。だから、それがウサギのもつ特性なのだと思う」と言ったとしましょう。いったい、何回それを見たのでしょう? 一度きりなら、ただのエピソードにすぎません。科学者たちはそのようなことに耳を貸しません。私たちはエピソードが嫌いなのです。  

しかし強力なコミュニケーションでは、具体的な内容が力をもちます。1人の人物、1つの物、1つの特徴、1つの瞬間にまで物語が凝縮されると最強の威力が発されるのです。つまりコミュニケーションでは、「エピソード」は受け入れられるだけでなく、強い力をもつのです。それが広く活用されています。 

たとえば、『ニューヨーカー』誌ではどの号でも、アメリカの移民に関する記事など、大きなトピックの特集記事が組まれているはずです。その手の記事の冒頭にはエピソードが紹介されています。リオグランデ川を泳いで渡り、アメリカに密入国した1人の女性の物語が語られるでしょう。その1つのエピソードにより、読者は人間的な側面につながりを感じます。全体像理解しやすくなります。それがコミュニケーションのもっとも強い部分なのです。同時に、科学者たちが嫌悪するものでもあります。

両者の隔たりは計り知れないほど大きい。それでも、その隔たりを埋める必要があります。そこでABTフレームワークの出番です。科学から経済、政治、法律、エンターテイメント、ビジネスまで、あらゆる分野に共通する物語構造の単一モデルに気づくことで、それを実現できるのです。 

ABTフレームワークは非常に強力なツールですが、難点が1つだけあります。それは、一日で習得できるものではないということです。「ナラティブ・ジム」に通ってトレーニングする必要があるのです。この本では、ジムに通うのと同じように、物語に取り組む必要がある、という考えを述べています。全力で何度も繰り返す必要があるのです。  

あなたはこれまで、科学者たちが真実のみを述べ、個人的な話や解釈を述べることに恐怖を感じるメンタリティについて書かれてきましたね。私たちは、科学者が自分の仕事について語ってくれるよう、対話をもったり後押ししたりしていますが、そのようなメンタリティのために苦労が絶えません。その一方で、一般の人が聞きたいのは、専門家が何を信じ、何を考え、どう行動するかという個人的な真実です。科学界ではこのギャップが「科学リテラシー」という言葉で説明されることがよくあります。このギャップが、科学の社会的地位にますます影響しているように思います。

れは科学の専門家全体が理解していなさそうな根本的な問題の1つです。科学には2つの主要部分があります。1つは、研究をすること。もう1つは、それを伝えることです。 

残念ながら、これら2つの要素は同じでありません。研究をするとき、正確性を期して細心の注意を払、すべてを正しく行います。だから好きなだけ時間をかけ、けっして間違いをおかさないよう心がけます。さらに、公表されるものが絶対的に正しいことを確認するために、査読にかけます。  

しかしコミュニケーションに関してはそのような贅沢はできません。完璧なコミュニケーション方法は存在しないのです。非常に変わりやすいものなので、ひたすら繰り返すことで、時間をかけて直感を養うしかありません。それを繰り返し続けていく。何かを伝えるとき、それを外に出して、力を尽くさなければなりません。あまりにも長く待ちすぎると、負けてしまいます。 

この隔たりを、科学者は理解していません。これを鮮烈に感じたのは、CDC(アメリカ疾病予防センター)とNASA(アメリカ航空宇宙局)へ、それぞれの広報担当者から招かれたときです。どちらの場所でも、担当者が科学者と広報スタッフとの間にある緊張を話してくれました。科学機関にはさまざまなカルチャーがあります。科学者たちは何を伝える必要があるかを分かっていますが、どう伝えればよいのか分からない場合もあります。広報担当者はコミュニケーションの仕方知っていますが、自分たちが伝えている内容を理解していないことがあります。それを解決するには、両者が協力する必要があります。 

NASA訪問での最後のセッションのあと8ほどの広報スタッフと機会けられていましたかれらは半円を描くように座っていました。そして各人が、次々に、科学者との苦い経験について語って聞かせてくれたのです。最後の女性は、自分の話を語りながら泣きだしてしまいました。彼女上級研究員にインタビューしたときのことを話しましたその研究員は自分が携わっている15種類ほどのプロジェクトについて彼女に語ったのです。彼女はその中からもっとも興味深いものを3つ選び、それを記事にしました。その記事が出た日、彼が彼女に電話をかけてきて、怒鳴りつけたのです。「私が話した他のプロジェクトについてはどうなったんだ? あれもこれも、山ほど話したじゃないか。どれも記事に出ていないぞ」と。彼女は記事にはすべてを掲載できないと説明しました。けれど彼は聞く耳をもちませんでした。

つまり、これらは完全に異なった2つのカルチャーなのです。文系vs理系です。ABTフレームワークは、少なくともその隔たりを埋める可能性があります。私たちのABTフレームワークコースでは、両方の視点をトレーニングに組み込んでいます。参加者のおよそ3分の2は科学者で、残りがコミュニケーターです。   

「サイエンスコミュニケーション」や「サイエンスコミュニケーター」という言葉のニュアンスは微妙で、科学情報の重要性が自明であるかのような印象を与えます。だから私は、あなたの著書に書かれた「他の情報や物語と比べて、科学は特別なものではない」という考えに共感します。物語を地球規模で大量に消費する時代では、YouTubeやNetflixなどのプラットフォームに多くのコンテンツがあふれており、人々の注目を集めるための競争が激化しています。しかしサイエンスコミュニケーションはいまだに一方的であることが多く、一般的に科学に関心のない人々にとっては近寄りがたいものです。サイエンスコミュニケーションがこの障壁を崩すために、エンターテイメント業界とハリウッドが活用するツールを使いこなすにはどうすればいいのでしょうか?

科学者は想像力に乏しくなりがちです。かれらは、自分たちのかわりに情報を伝えてくれる人に、自分の研究を隅々まで知っていてほしいと思うものです。それに気づいたのは私が科学者だった頃です。私も同じように感じており、私の研究分野を理解していないコミュニケーター信用していませんでした。 

この想像力の欠如が顕著に表れるのは、科学機関が新しい所長を採用するときでしょう。「科学に詳しい」人物、つまり、評価の高い研究を数多くしてきた人を探す傾向があります。「人間に精通した」人物は求められません。 

その結果、私も何度も見てきたことですが、人間に関するスキルをもたない人が大きな機関の所長になるのです。そして、かれらが一般の人々との対話方法を知らないこともあり、その研究機関で人事問題が解決しないままです。結局、経営的なスキルをもつ人物と科学的な側面から指導するアドバイザーがいた場合よりも、もっとひどい災厄に見舞われることになるのです。  

多忙な研究者にそこまで多くのことを要求すべきかはどうかはジレンマです。偉大な科学者でありながら、エンターテイナーでもある研究者はめったにいません。最近の例では、ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所の名誉所長である山中伸弥教授です。先日、彼は所長を退任し、研究に集中することを発表しました。彼はテレビに出演したりマラソンを走ったりして、研究所の認知度を上げるために努力してきましたが、実際の研究からは遠ざかっていました。科学者が巧みなストーリーテラーになることをどの程度、求めるべきなのでしょうか? 科学者でなければ、他に誰がその責任を引き受け、ギャップを埋めるべきなのでしょうか?

科学者は「ストーリーテラー」になる必要はありません。必要なのは物語構造を理解することです。コミュニケーションの3つの基本要素、つまり、基本設定、課題、解決という3つの原動力を理解し、自分たちのあらゆる行動が、この基本構造をどのようにもっているかを理解する必要があります。科学者は、文脈を設定し、課題を特定し、解決に向けて取り組みます。刑事やアスリート、あるいはストーリーテラーと同じ過程をたどるのです。物語は普遍的なものです。 

物語構造を学び始めると、「単一の物語」の圧倒的な威力に敬意を払うようになります。聴衆の求めるものは、単独の声で、不協和音ではありません。 

その原動力が制御不能となったのが、パンデミックです。科学者や医師、その他の専門方たちはみんな、自分たちが何をしているのか実際に分からないままテレビに出演していました。かれらは情報をもっていますが、それを伝達するメディアを理解していません。長年のメディアへの露出とトレーニングにより養われるべき直感をもっていないのです。  

必要なのは、科学の専門家とメディアの専門家のあいだのパートナーシップです。その最たる例が、南カリフォルニア大学のハリウッド・ヘルス&ソサイエティ(HH&S)プロジェクトです。そのプロジェクトを25年前に設立し、現在も常任理事を務めるのは、私の友人、マーティ・カプランです。私がこのプログラムを称賛する理由は、適切な人に正しい行動をとらせることが核心にあるからです。そのプログラムでは、正しい情報(アメリカ疾病対策予防センターの公衆衛生ファクトシートなど)を収集し、適切なコミュニケーター(ゴールデンタイムのテレビ番組の脚本家)に届け、科学の専門的な助言に沿って、プロにコミュニケーションを任せようとします。 

そのようなレベルでの私のシンプルな提案は、「プロにプロの仕事をさせる」ということです。たとえば、なぜ国立衛生研究所(NIH)は、ホワイトハウス報道官のように、複雑なメッセージを明確に伝えることのできる訓練をうけた1人の広報担当者を置かないのでしょうか。 

このような考えが、HH&S創設の基になっています。科学者に映画を作らせようとするのはやめましょう。代わりに、正しい方法で映画作れるよう、プロの映画制作者と協力してもらうのです。 

つまり、ハリウッドの脚本家に物語を語らせればいいのです。最先端の情報を科学の専門家から脚本家に伝えてもらい、一緒に映画を作ってもら。ただし、訓練を受けていない人に、不向きな仕事をさせようなんて思わないこと。当然ながら、映画制作者に心臓の開胸手術をさせたいとは思わないでしょう。

最後に一言お願いできますか?

私が知っているなかで唯一、マイケル・クライトンは科学とメディアという2つの「言語」に精通していました。彼は真の科学者(ソーク研究所でポストドクターまで務めた生物医学の研究者)で、真のマスメディアメーカー(『ジュラシックパーク』や『E.R.』などの映画、小説、テレビ番組の制作者)でもありました。彼は私たちに非常に多くのこと教えてくれようとしましたが、科学界は、いつものことですが、ほとんど耳を貸しませんでした。 

彼はサイエンスコミュニケーションに寄与しようと駆り立てられたわけではありませんが、いつでもその用意がありました。エッセイを書き、講演会を行い、増えつつあるマスメディア課題について科学者たちと話し合いました。  

生物医学界を去る前の197512月、『New England Journal of Medicine』誌で「Medical Obfuscation: Structure and Function(医学の難解さ:構造と機能)」と題する短い論文を発表ました。同誌に掲載された3つの記事を精査し、そこに繰り返し登場する難解さを招く10の特徴をリスト化したのです。その特徴とは、比較的単純なものを、意味が理解できないほど複雑な方法で伝えるものです。 

彼は科学界がいつもそのような方法にとらわれていたわけではないことを指摘しました100年前、科学者たちははっきりと自信をもって、語り、書き、コミュニケーションを図っていました。かれらは自分の言っていることの本質伝える方法を知っていたのです。彼の指摘では、難解さがコミュニケーション様式として受け入れられるのは20世紀だけだと続ます。 

それがいまだに基本的な問題なのです。それが今の私たちがいる場所です。難解さこれまで以上に悪化しているにもかかわらず、それが直接的に指摘されることはほとんどありません。  

1999年、彼は科学振興会の基調講演で、科学界に向けて生涯最後の、本当に建設的な話をしました。その講演のなかで彼は、科学者たちがメディアを理解していないことを遠慮なく指摘しました。

そして、1990年代後半に台頭してきた反科学運動にどう対処するかについて、基本構想となる建設的なアドバイスをしてくれました。彼は「逃したチャンス」について語りましたが、残念ながら彼自身も最終的にはそうなってしまいました。

マイケル・クライトンはメディア反科学運動に対処するうえで科学界を先導することができたのに、多くの科学者は彼をハリウッドの道化だと考えていました。それが大きな問題なのです。科学者は往々にして想像力に乏しく、目のまえの金脈に気づけるほどの視野をもたない。  

この23年で私が気づいたことの1つは、クライトンも指摘したように、100年前のほうがうまくコミュニケーションをとっていたということです。科学が生み出したノイズの海に科学全体が溺れてしまうまえに、科学の上層部にいる誰かがこのことについて議論し始める必要があります。  

Further reading  

参考文献  

Authored by Randy Olson  

ランディ・オルソンの著作 

 

By other authors, recommended by Randy Olson  

ランディ・オルソンが推薦する他の著者による文献  

  • The One Thing by Gary W. Keller and Jay Papasan 
  • They Say, I Say by Gerald Graff and Cathy Birkenstein 

 

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