その男、魔術師につき
- コミュニケーション日本語記事
- June 1, 2019
その男はサイエンスアゴラを立ち上げ、日本のサイエンスコミュニケーションの礎を築いた研究広報の魔術師、長神風二(ながみ・ふうじ)。研究の面白さを伝えることを生業としてきた広報のプロが、震災を超えて行き着いた場所とは。
東北大学 東北メディカル・メガバンク機構 特任教授(広報担当) 広報戦略室 室長
長神風二(ながみ・ふうじ)氏 インタビュー
聞き手 湯浅 誠
サイエンスアゴラから東北大学へ。サイエンスコミュニケーションのプロになるまで。
湯浅 長神さんはJSTの大規模事業である「サイエンスアゴラ」の生みの親です。現在は東北大学の東北メディカル・メガバンク機構の広報戦略室ですが、サイエンスコミュニケーターとしての道を歩まれたきっかけってなんだったんでしょう?
長神 僕は、東大の大学院を満期まで行って卒業せずに飛び出しちゃったんですよ。研究者になろうと大学院に入ってみたけれど、新しいテーマを見つけて自分自身が研究をするよりも、研究について語り合ったり伝える会を主催するほうがずっと向いていることに気づいた。だから研究の面白さを伝える仕事が僕が生きる道なんじゃないかと思って、当時新しくできた日本科学未来館に就職しました。
その頃の僕は「サイエンスコミュニケーション」なんて言葉すら知らず、ただ仕事が面白くてたまらなかったんですが、いつの間にか「あいつがやってることが日本におけるサイエンスコミュニケーションだ」と言ってくれる方々が出てきたんです。
サイエンスアゴラを立ち上げて2年弱担当しました。何か新しいことをしたいと思った時に、東北大学の大隅典子先生から東北大学の医学部の新しい脳科学のプロジェクトで広報を立ち上げるので来ないかとお声かけいただきました。
震災に立ち会った者としての、身の置き方。
湯浅 東北大学に移られたのが2008年で、その3年後の2011年に東日本大震災が起きました。
長神 11年の3月に震災があった時、僕ら広報室は東北大学医学部の公式Twitterで震災の翌日から発信することができました。学術系では最速だったと思います。震災が起きるとね、ウェブサイトもメールも全部止まってしまうんですよ。でもTwitterは災害時でも生きていたんです。状況が落ち着いて復興について考えなければならなくなった時に、教授や准教授たちにアイディアを募集して、東北メディカル・メガバンク機構の構想が出来上がり、僕も立ち上げに関わることになりました。
湯浅 震災は長神さんの人生にもお仕事にもかなりインパクトがあったんじゃないでしょうか?
長神 それはそうです。復興をどう成し遂げるのか、復興における大学の役割というものを考えるとき、大学っていうのはそもそも人材育成と研究をするところだから、時間がかかる。復興にも膨大な時間かかる。その解として「コホート調査」というプロジェクトを立ち上げた時、5年、10年、それ以上の時間軸でものを考えるようになり、これは自分の時間をかけて取り組む価値があると考えました。東北大学にたまたまいて、震災に立ち会ってしまった者としての身の置き方というものに繋がると思います。
湯浅 JSTから東北大学に移られて、サイエンスコミュニケーターとして仕事の性質の違いを感じますか?
長神 東北に住んでいて東北大学を知らない人はきっとほとんどいないですよね。だから国立大学の広報の仕事は知名度を拡大することではなく、どちらかというとブランディングに近いものです。どうやって地域社会や地方メディアへの大学の研究プレゼンスを考え、どんなブランドイメージを構築するかを考えることが仕事です。
湯浅 確かに、一般的なサイエンスコミュニケーションと違い、特に東北メディカル・メガバンク機構は、市民にコホートに参加してもらうという具体的な目的がありますよね。
長神 そうですね。東北大学全体、あるいは医学部と、東北メディカル・メガバンク機構とでは、また、広報のあり方も更に違います。震災が起きて、東北メディカル・メガバンク機構の広報を担当するようになってから、サイエンスコミュニケーションへの関わり方は変わりました。今までは研究の面白さや大切さを広く共有することが大きな部分を占めていました。
でもコホート研究という大規模な研究プロジェクトに関わり、多くの市民や、場合によっては我々の活動に反対する団体に向けてもメッセージや情報を発信したり意見を交換する仕事をするようになって、その言葉の意味がもっと具体的で、切実で、緊急性を帯びたものに変わった。今の仕事は伝える相手がはっきりして、結果も見えるコミュニケーションなので、自分にと
長神 11年の3月に震災があった時、僕ら広報室は東北大学医学部の公式Twitterで震災の翌日から発信することができました。学術系では最速だったと思います。震災が起きるとね、ウェブサイトもメールも全部止まってしまうんですよ。でもTwitterは災害時でも生きていたんです。状況が落ち着いて復興について考えなければならなくなった時に、教授や准教授たちにアイディアを募集して、東北メディカル・メガバンク機構の構想が出来上がり、僕も立ち上げに関わることになりました。
湯浅 震災は長神さんの人生にもお仕事にもかなりインパクトがあったんじゃないでしょうか?
長神 それはそうです。復興をどう成し遂げるのか、復興における大学の役割というものを考えるとき、大学っていうのはそもそも人材育成と研究をするところだから、時間がかかる。復興にも膨大な時間かかる。その解として「コホート調査」というプロジェクトを立ち上げた時、5年、10年、それ以上の時間軸でものを考えるようになり、これは自分の時間をかけて取り組む価値があると考えました。東北大学にたまたまいて、震災に立ち会ってしまった者としての身の置き方というものに繋がると思います。
湯浅 JSTから東北大学に移られて、サイエンスコミュニケーターとして仕事の性質の違いを感じますか?
長神 東北に住んでいて東北大学を知らない人はきっとほとんどいないですよね。だから国立大学の広報の仕事は知名度を拡大することではなく、どちらかというとブランディングに近いものです。どうやって地域社会や地方メディアへの大学の研究プレゼンスを考え、どんなブランドイメージを構築するかを考えることが仕事です。
湯浅 確かに、一般的なサイエンスコミュニケーションと違い、特に東北メディカル・メガバンク機構は、市民にコホートに参加してもらうという具体的な目的がありますよね。
長神 そうですね。東北大学全体、あるいは医学部と、東北メディカル・メガバンク機構とでは、また、広報のあり方も更に違います。震災が起きて、東北メディカル・メガバンク機構の広報を担当するようになってから、サイエンスコミュニケーションへの関わり方は変わりました。今までは研究の面白さや大切さを広く共有することが大きな部分を占めていました。
でもコホート研究という大規模な研究プロジェクトに関わり、多くの市民や、場合によっては我々の活動に反対する団体に向けてもメッセージや情報を発信したり意見を交換する仕事をするようになって、その言葉の意味がもっと具体的で、切実で、緊急性を帯びたものに変わった。今の仕事は伝える相手がはっきりして、結果も見えるコミュニケーションなので、自分にとってはよりチャレンジングで大きな課題を得たととらえています。
大学の広報ってそもそも、どんなお仕事?
湯浅 東北メディカル・メガバンク機構はかなりユニークな広報活動をされている印象がありますが、広報の仕事って一言で言って何をする仕事なんですか?
長神 いや、一言では言えないですよね。例えばね、東北大学に移って脳科学のプロジェクトの広報をしていた時に、大隅先生からある時「長神さん、『脳と能』ってイベントどうかな?やろうよ」ってお題を振られて。
湯浅 タジャレですね(笑)
長神 完全にダジャレですよ。脳科学と能楽なんて接点なんかなさそうなんだけれど、振られたからにはイベントとして成立させないといけない。そうすると、そんなけったいなコンセプトに付き合ってくれる脳科学者と能楽師を探してくるところから仕事が始まります。
もともとそういう「何でもやる」ところはありますが、現在広報をしている東北メディカル・メガバンク機構には15万人のコホートを作るという目標があり、15万人となるとその背後にいるご家族から友達まで、全県民がステークホルダーです。全県民に届く広報をするとなるともう全てのチャンネルを使うしかない。
湯浅 使える媒体は何でも使うと。
長神 例えばポケモンGOが始まったときに、キャンパスからすべてのポケストップを排除するなんていう大学もあるということでしたけれども、僕らは逆に「機構の建物のポケストップに案内看板作ろうぜ!」と言ってすぐ看板を立てちゃった。
僕らの広報はそういう発想なんです。サッカーチームのベガルタ仙台さんとコラボして子供向けのイベントを学内でやったり、試合会場でくじ引きをしたりとか。
湯浅 本当になんでもありで、どこにでも行き、なんでもやる。
長神 そうですね。僕らは自分たちの事業について説明させていただける機会があるならば、今までに届かなかった方々にお目にかかれる機会があるならば、どこにでも行きます。
広報の仕事としては、写真も撮るし、学内用の看板やパネル作り、広報誌の発行、ウェブサイトの制作、テレビCMからラジオ番組出演、新聞広告もやりますし、コホートの参加者の方一人ひとりへのお手紙も書きます。仕事の内容としては広告代理店のようなものに近いかもしれません。
湯浅 機構ではかなり多くの見学者を受け入れていると伺いましたが。
長神 機構では年間で120組以上の見学を受け入れています。受け入れることが最大の広報活動なんですよ。言ってみれば、機構について知りたい、見学したいという方をお招きして、きちんと丁寧に対応しておもてなしをした人の多くは、僕らの味方になってくれます。
湯浅 なるほど。ただ120組以上というと、毎週2組以上必ず見学者が来る計算ですよね。広報の方もそうですが、機構に所属されている研究者の方達から「研究時間が削られる」なんて文句が出たりはしないんですか?
長神 それはありませんね。それは山本機構長が「見学の申し込みは断ってはならない」と明確に方針として機構全体に伝えているからです。国の税金をかけて素晴らしい施設を作ってもらったわけだから、見に来たい方々を受け入れて丁寧に対応するのは当然だし、最初から機構の業務に組み込まれているものだと思え、と機構長が全機構に向けて言っています。それはその通りだって思うんですよ。僕らの仕事の一部だから、文句を言う人はいません。
湯浅 トップがそのヴィジョンをスタッフに一人一人に共有しているからこそ、できることなんですね。
熊本大学の震災サポートに見た、東北魂
湯浅 熊本の震災があって熊本大学が大変な状況になった時、長神さんからボランティアに協力してほしいとお声かけいただいたことがありました。熊本大学の被災状況を英語で発信するために、東北大学の皆さんがメッセージを手分けして翻訳して、うちが英文校正をさせていただいたんですが、あの時、東北大学さんがどうしてすぐにサポートに動けたのかぜひ知りたいです。
長神 災害時に多言語に対応する余裕は普通、ありません。だから僕が機構の研究者にメールして、熊本の被災状況を伝えるコンテンツをみんなで翻訳したんです。研究者って基本的には英語ができるから、文書を分割して一斉に10数人に夜、メールしました。そうしたらどんどん夜中の間に翻訳原稿が上がってきて、むしろ翌朝までメールチェックしていなかった人たちが、参加できなくて悔しいがってたぐらいです(笑)。
湯浅 フットワークが軽いですね。
長神 東北の人間は震災当時多くの方々に助けられたので、他の地域に何か起きたら助けなきゃって意識は強いと思います。うちの機構に依頼したら断る人間はいないって思いますね。
湯浅 我々も災害や緊急時にこんな風に自分たちの専門や普段やっている仕事を生かせるものなんだ、とすごく勉強になりました。あの経験から、プロボノ翻訳・校正をもっと積極的に広報して必要な人に情報が届くようにしようという意識が生まれましたね。
東北メディカル・メガバンク機構の広報のこれから
湯浅 市民に参加してもらい15万人のコホートを集めるという機構のターゲットは達成してしまったわけですよね。ここからの広報の目標はどこになるんでしょうか?
長神 コホートにご協力いただいた15万人の方々の背後には、参加しなかった全県民がいらっしゃいます。実際に参加はしなかったかもしれないけれど、全県民の皆様がいてこそ達成できたことだと思うし、僕らの活動が県民のみなさんの生活にどう結びついているのかを常に発信し続けたい。
普通、研究成果の広報って論文が出て初めて行うものですが、僕らにとっては論文になるかならないかとは関係なく、「みなさんのご協力の成果がこのようにまとまりつつあります」と定期的に伝える義務があると思うんです。
湯浅 今は論文にしてナンボと言うか、論文として発表されるまで自分の研究成果の公開を好まない傾向が強い気がしますが。
長神 学問の世界の常識からは少し外れますが、論文にはならなくても、僕らの事業は表現して伝えなくちゃいけない。「15万人コホート達成しました!」「MRIに4千人の市民の方が参加しました!」というニュースと、参加してくれた人々への感謝と共に伝えたい。
メディアは「初の」「最新の」「最も」という情報しかニュースにしてくれません。でも必ずしもメディアに載らなかったとしても、発信していく必要があるし、多くの人に伝えるために、記事になるような工夫をしていかなければいけない。地味だけれど大切な作業です。
雑誌「ScienceTalks」の「東北メディカル・メガバンク機構の広報にかける東北魂」より転載。