人文社会学から仕掛けたムーブメント 現代の学術出版が抱える3つの壁を突破せよ
- オープンサイエンス出版日本語記事
- February 3, 2021
「F1000Research導入は、現代の学術出版システムへの問題提起ですか?」筑波大学に取材を申し込んだとき、最初に聞いた質問がこれだった。答えは「YES」。大学が独自の学術出版ゲートウェイを持つことの意味を探ろうとした私たちだが、取材を初めてすぐ、これは人文社会学系の研究者が出版業界に向けて仕掛けたムーブメントであるという事実に気がついた。
英語偏重、インパクトファクター至上主義の出版界に立ち向かう
ことの始まりは、学長補佐室長でヘブライ語の研究者である池田潤教授と森本行人URAが2017年に独自に開発したiMD(index for Measuring Diversity)という新しい学術誌評価指標だ。図書館情報学・人文社会情報学も手掛ける池田教授は、インパクトファクターなど論文の被引用数を基にした学術誌の代表的な評価指標では、人文社会学と自然科学を同じ土俵で評価できないことに疑問を持ち、国・言語・分野を問わず全ての学術誌を「ダイバーシティ」という全く別の観点から評価するiMDを開発したのだ。
iMDの考え方は至ってシンプルだ。「より多くの国と研究機関の研究者の論文が発表されているほど、多様な著者に評価されているジャーナルである」として、特定のジャーナルに1年間で発表された全論文の著者の所属機関とその立地国の数を基にスコアを算出する。インパクトファクターには短期的なトレンドの変化を捉えられない、スコア算出の根拠となる被引用数データの透明性が低いなど様々な問題があるが、中でも彼らが特に解決したかったのは「英語」「自然科学系」「欧米」のジャーナルが圧倒的に有利になる点だ。
「学術情報流通における英語の重要性はもちろん否定しません。でも人文社会学にとって英語以外の言語での出版はとても大事なんです。例えば、日本文学の研究や日本の憲法を扱う研究は日本語で書いた論文が世界最高のはずですよね。英語でなければ国際的に評価できないから質が低いという風潮は間違いで、何語であっても良い研究は評価されるべきです。しかし、今は大学ランキングも国立大学法人評価も学内の研究評価もScopusなどの海外の論文データベースが基になっていて、ほとんどの人文社会学系の重要な非英語文献は掲載されておらず業績としてカウントさえされません。この英語偏重の学術情報指標は絶対におかしいと思ったんです。」と池田教授は言う。
この問題を国際的な学術出版社を交えて直接議論話し合うため、池田教授のチームはiMD開発の発表を兼ねて国際シンポジウムを企画した。そこで登壇者として呼んだF1000Researchの代表取締役、レベッカ・ローレンス氏との出会いが、今回のゲートウェイの導入に発展したのだ。
「ジャーナルのない世界を作りましょう」
もともと池田教授と森本さんは、アメリカのビル&メリンダ・ゲイツ財団が研究成果の公表にGates Open Researchと名付けたF1000 Research社の出版プラットフォームのゲートウェイを利用していたことに興味を持っていた。ローレンス氏がシンポジウムのスピーチの最後に言った「みなさん、ジャーナルのない世界を作りましょう」の掛け声が、F1000Research導入を考え始める決め手になった。
F1000Researchは分野を超えたオープンリサーチプラットフォームで、そこに紐づくような形で多数のゲートウェイが存在する。ゲートウェイとは、注目のコンテンツやその他のリソースへのリンクを備えた、機関または組織向けのパーソナライズされたポータルのことである。著者が資格要件を満たし、内容、質、論調、形式についてF1000 Research社の論文ガイドラインの要件を満たしているかのチェックを通過すれば、ジャーナルの出版プロセスや規定に縛られず、誰もが研究成果を即座にオープンにでき、誰でも無料で読むことができる。さらに、F1000Researchに出版された論文は、出版後に査読が通ればScopus等に自動的に登録されるため、掲載されたジャーナル自体の評価に頼ることなく、一論文として研究情報データベースからアクセスできるようになる。加えて、通常の論文は出版社が著作権を持つため、論文を書いた本人である著者には再利用や再配布の権利がないが、 F1000Researchでは著者が著作権を保持することができる。ある意味で、既存の学術出版システムにカウンターカルチャーを仕掛けたプラットフォームなのだ。
「F1000Researchはプレプリントともオープンアクセスジャーナルとも違うオンリーワンのモデルでした。リスクを考えるよりも、全く新しいことをやってみたい思いが優った。このゲートウェイを大学として導入すれば、分野を超えて同じプラットフォーム上に論文を掲載し、平等にデータベースに掲載され、評価されるのではと考えたのです。」と池田教授は語る。
言葉の壁を越えるための第一歩
しかし最初の時点でF1000Researchからの提案に、日本語による出版が必要であるという認識はなかった。日本語出版ができなければ、たとえScopusに論文がインデックスされたとしても自然科学と人文社会学の格差の問題は解決しない。池田教授と森本さんはあくまで日本語にこだわった。
「F1000Researchを導入する意味があるか否か、ボトムラインはあくまで日本語対応でした。日本語で投稿できる機能を開発してほしい、と強くお願いしたのです。レベッカさんは、やってみましょう!と言ってくれました。それがとてもうれしかったのです。彼らもまた、言語の壁は研究においてあってはいけないという私たちの基本的な理念に共感してくれた。これは信頼できるパートナーになれるかもしれない、と思ったんですよね。」と池田教授は振り返る。
言葉の壁の原因は様々だが、自然科学系の研究が英語優位であることと、欧米の出版社のテクノロジーの限界が大きい。現在 Scopusは世界中の査読論文掲載ジャーナル約28,000誌を収録対象にしている。出版国に関わらず、その約80%は英語論文が主となっている。日本の人文社会学分野のニーズは大手出版社の商業ベースには乗らず、多言語化の技術開発に投資するほど大きな声として届かないのが現実だ。
「日本語、中国語、韓国語などを中心とする2バイト文字は、アルファベットを中心とする1バイト文字と文字コードが全く異なるので、出版社にとって技術的な壁が非常に大きいんです。しかし今はUnicodeが普及しているので、できないはずがない。ある意味で、文字の問題を理由に出版ができないというのは技術的な怠慢と心理的なバリアの問題だと思うんです。人文社会学系の学協会は、日本語で出版されている文献をインデックスしてもらえないか大手の学術出版社に打診してきましたが、言語の壁は厚く、簡単ではなかったんです。とくに、サイテーションに関連する参照文献表については、日本語の文字データは扱いたくない、1バイト文字の範囲にとどめたいというのがほとんどの回答でした。参照文献表だけはローマ字表記にしてくれといった強気の条件までありました。」と池田教授は言う。
日本語の壁が越えられれば、越えられない文字や言語の壁はない。これは多言語出版ムーブメントの始まりに過ぎないと森本さんは言う。「私たちが世界で初めて、このプラットフォームで英語以外の言語で研究を発信するというチャレンジをすることで、どの国の言葉でも隔たりなく研究を発信していけるという研究情報発信のイノベーションを起こしたいのです。ドイツ語であってもロシア語であってもズールー語であっても、発信していける世界が来てほしい。その第一歩になればいいと思うのです。」
出版後ピアレビューで論文のクオリティをいかに担保するか
ところで、F1000Researchの仕組みで最もわかりづらいのが出版後ピアレビュー(Post-publication peer-review)の概念だろう。通常の学術出版のプロセスでは、ジャーナルに投稿された論文を編集者がチェックし、数名のピアレビュアーが論文を学術的な観点からチェックし、問題ないと判断されたものが出版される仕組みだ。しかしF1000Researchでは、ピアレビュー前の論文をチェックなしでそのままプラットフォーム上に「出版」する。出版前の論文を公開する「プレプリント」と混同されがちだが、 F1000Researchではこの段階で出版したとみなし、引用も可能となる。公開後にプラットフォーム上にピアレビュアーを招待してオープンに査読を行い、査読に従った論文の修正も全てオープンに記録されるのだ。研究出版のハードルを下げて公開スピードを上げ、全てのプロセスを見える化することで学術的な検証手続きの透明性を担保する新しい出版スタイルである。
大学としてピアレビュー前の論文、つまり学術的な検証プロセスを経ていない情報を公開してしまうことへの不安やためらいはないのだろうか?
おそらく何度も受けている質問なのだろう。池田教授はこの質問ににっこり笑い、こう答えた。「研究が正しいか否かの検証には、「時間の評価」が必要です。人文社会学系では、極端に言えば10年から100年単位で評価を受け残るものと残らないものがあります。自然科学系も根本的には同じで、常にリトラクション(出版後の論文取り下げ)が起きていますよね。つまり、全ての論文の研究成果は暫定的な仮説に過ぎず、グレーなのです。今正しいと思う理論は、20年後には逆転していることだってある。今のピアレビューの仕組みは現時点ではベストだと思いますし、細心の注意を払って専門家がチェックしたことに一定の評価はすべきですが、「ネイチャーに査読が通っているから普遍的に正しい」と言えないのが研究です。それならば、査読の評価も、修正過程も、コメントも含めて全てを公開するほうがフェアだという考え方もある。どちらがいいというのではなく、選択肢は多いほうがいいと思いませんか?」
簡単だったラスボス陥落「よし、やろう!」
国立大学のようなステークホルダーの多い組織がスタートアップに近いベンチャー企業を巻き込んでゲートウェイ開発をするのは意思統一が極めて難しい案件に思える。池田教授とURAの森本さん、新道さんが現場で企画をまとめ、最初の協議から研究担当副学長の木越教授と人文社会系長の青木教授を巻き込んで全ての意思決定を一緒に行った。議論を進める中で哲学と目標を一致させ、チームとしての信頼関係が生まれた。
大学の幅広い分野の研究者からのニーズを吸い上げなければ、全学的なプロジェクトは進められない。木越副学長が系(筑波大学では研究者が所属する分野別の組織を系と呼ぶ)の研究担当者の意見を聞き、全分野の系長に話を通してニーズ調査を行い、方針をまとめる役目を担った。
そして最後は学長決裁である。このラスボス陥落は案外スムーズでした、と池田教授は言う。「さあトップを口説くぞ!と学長のとこに行きましたら、うちの学長は革新的なことが大好きでどんどんやるべきというスタンスなので、これまでの経緯と、学内の全ての系長とやりとりした経緯を話すと、「よし、やろう!」と一言。筑波大学は新構想大学と言われていて、新しいことをやるのがミッションだという理念があります。永田学長はそれを体現している学長なのです。」
学長自身が以前から持っていた、現在の学術情報流通が過剰に商業化しているという問題意識ともマッチした。「論文という作品は公共の税金を含めたお金が投資されて生み出されている公共財です。人類の公共の財産でもあるにもかかわらず、現代のシステムではいつのときからか論文が過度に商品化されてしまい、そのコンテンツの権利を出版社が握っている。一方で研究者は出版をアウトソースしすぎてしまった。研究者は自らが生み出した研究の情報流通にちゃんとコミットするべきであり、この状況を変えなければいけない、と学長は常日頃語っていました。」
「新しいことをやるときには、急いじゃいけないんだ」
当然のことだが、学内全ての研究者にこの新しい出版モデルの理解を得られているわけではないのが現状だ。学術出版の作法は分野によって異なり、個人の考えも様々だ。
自然科学(ライフサイエンス)をバックグラウンドにもつURAの新道さんは言う。「英語論文をメインで書く自然科学分野の研究者が、F1000Researchのようなゲートウェイにメリットを感じるようになるまでにはそれなりの時間がかかりますし、興味がある人も「面白いとは思うけど、どうなるかもう少し様子を見よう」というスタンスを取る方が多いだろうというのが現実です。寂しいとは思いますが、各分野のジャーナルの風土が固まってしまっている現状に対してどう大学として働きかけをしていけるかがこれからの挑戦です。」
16世紀に始まった学術出版の歴史の中で、出版社が流通を担い、各分野の専門家コミュニティがピアレビューを行うことで論文の学術的なクオリティを担保して出版するという基本的な手続きは現在も大きく変わっていない。インターネットの普及で電子ジャーナルやオープンアクセスが台頭したことは出版ビジネスモデルに影響を与えているものの、大学という組織はある意味、長い間このエコシステムの蚊帳の外に置かれていた存在だ。にもかかわらず国際的な研究競争が年々激化する中で、購読・出版コストの高騰化と、欧米が中心となった画一的な研究評価の流れは、大学の財政と研究の多様性をじわじわと圧迫しつつある。
筑波大学の今回のアクションは、今は小さな水滴に見えるが、いずれ研究者の手に力を取り戻す大きな波紋になるのだろうか?そして、個々の研究者はこの動きにどこまでそれを望んでいるのだろうか?
池田教授は言う。「新しいことをやるときには急いじゃいけないんだ、というのが、今回学んだ一番大切なことです。何を目指していてどんな意味があるのか、そのヴィジョンを一度に多くの人に理解してもらうのは難しいのです。だから時間をかけて、少しずつ理解の輪を広げていくことが大事だなと思っています。今回開発するプラットフォームも、立ち上げていきなり最初から何百本という論文が出ることは全然考えていません。最初は10本、20本から始めて、徐々にこの動きが広がっていけばいいし、焦る必要はありません。新しいからこそメリットとデメリットもあり、それも含めて現場の研究者とじっくり話し合って、その過程で着実に何かを変えていきたいのです。」
左から:URA研究戦略推進室 リサーチ・アドミニストレーター・真道 真代、永田学長、人文社会系教授および学長補佐室長・池田 潤、URA研究戦略推進室 リサーチ・アドミニストレーター・森本 行人
プロフィール
池田 潤
筑波大学 人文社会系教授 学長補佐室長
筑波大学第一学群人文学類を卒業後、文芸・言語研究科修士課程修了。1995年テルアビブ大学大学院文化科学研究科にてPh.D.を取得。関西外国語大学外国語学部助教授を経て、2000年に本学着任。専門はヘブライ語・アッカド語を中心とするセム語学および、図書館情報学・人文社会情報学。
森本 行人
筑波大学 URA研究戦略推進室 リサーチ・アドミニストレーター
関西大学大学院経済学研究科にて博士(経済学)の学位を取得。関西大学URAを経て、2013年度より筑波大学本部URA。池田教授と共同でiMDを開発し特許出願。2018年にはURA業務の一環として、科研費の奨励研究獲得。
新道 真代
筑波大学 URA研究戦略推進室 リサーチ・アドミニストレーター
筑波大学第一学群自然学類を卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科を経て、総合研究大学大学院遺伝学専攻にて博士号(理学)を取得。専門は発生生物学。ポスドク経験後、民間企業にてブランディング、マーケティング、技術・知財移転支援等に携わった経験を生かし、幅広い研究支援を行う。
雑誌「ScienceTalks」の「オープンパブリケーション新時代がやってきた!筑波大学とF1000Reseachによるムーブメント」より転載。
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