コロナ禍で加速化するプレプリント文化と、 その先を見据える筑波大学の心意気

コロナ禍で加速化するプレプリント文化と、 その先を見据える筑波大学の心意気

新型コロナウイルス感染症が全世界で猛威を振るいだした2020年4月中旬頃から、同ウイルスに関する論文が大量に出始めました。学術論文は余程の大発見でない限り新聞の一面を飾る事はありませんが、全人類が直面したパンデミックに1日でも早く打ち勝とうと、連日コロナウイルスに関する科学記事が掲載されていました。しかし記事のくだりを読むと「可能性がある」「効くかもしれない」という非常に曖昧な表現であるか、あまりにも「Xがコロナに効く!」と断言した疑わしい記事も中には多く出回っていました。この動きをいち早く感知した研究者たちはSNSで盛んにそれらの記事に対する注意喚起を行っていました。なぜこんな現象が起きたのでしょうか?

通常、研究者が自身の研究成果を発表する際は論文を書きジャーナルへ投稿します。ジャーナルは論文内容を吟味して掲載する価値があると判断すると、出版に向けて動きますが、そのプロセスには平均で数ヶ月から半年以上かかると言われています。しかしコロナ禍において新しい発見を知るまでに半年以上を待たされたら、いつまで経ってもウイルスに打ち勝つことはできません。研究成果が出たら1日でも早く世に出したいと思うのが普通ですが、通常のジャーナルに投稿したらどう頑張っても1週間以内で論文掲載されることはありません。

そこで論文ができたらジャーナルに投稿せず、プレプリントサーバーに掲載してすぐに公開しようという動きが盛んになり、プレプリントサーバーに大量の新型コロナウイルス に関する論文が世界中から掲載される状況が起きたのです。ただし、これらの論文は専門家による査読を受けていないため、研究の科学的な信頼性や妥当性が定かでない状態です。それを科学に疎いマスコミが取り上げ、「XがYに有効である可能性がある」と半ば断言して書いてしまうケースが散見されたのです。研究者は、査読を受けていない論文を新聞で取り上げることの危険性を指摘していたわけです。

そんな折、同年5月終わりにこの問題に新しい角度から切り込んだニュースが舞い込んできました。筑波大学がF1000Researchのオープンリサーチ出版ゲートウェイを導入するというのです。新しく開発するプラットフォームはプレプリントを進化させた出版後査読システムを採用しており、論文を即座に公開することでスピードを確保し、出版後に公開で査読を行うことでマスコミや他の研究者が研究の科学的価値を判断する材料を提供できる。さらに、著者が出版言語を英語か日本語で選べるようになるというのです。なんてタイムリーな話題でしょうか。

一方で、私の頭の中は疑問でいっぱいでした。「日本の国立大学にどうやってこんな斬新な提携ができたのだろう」「なぜ数ある大学の中で筑波大学が?」「日本語でも英語でも出版OKってどういうことだ?」これは取材依頼をするしかない!と思いすぐに筑波大学に連絡を取りました。取材の結果わかったのは、F1000Researchを導入したこの独自の出版ゲートウェイの開発は、永田学長の経営哲学と、筑波大学の理念を共有する執行部の皆さんの問題意識と思いが結実したプロジェクトであったということです。

永田学長はその経営手腕が有名で、一度お話を聞いてみたいと思っていました。当初抱いていた勝手なイメージで「このプロジェクトはきっと学長のトップダウンで推進されたのだろう」と思い込んでいたのですが、お話を聞いて私の想像が的外れであることがわかりました。むしろ、アイディアをボトムアップで醸成してF1000Researchと交渉し、部局の方々との合意を取り、学長決済まで積み上げたのは執行部の方々でした。永田学長の新しいことに挑戦したい人々を応援し後押しするのが経営者の役割であるという考えを聞き、これが今の大学、あるいは企業経営においても必要な哲学なのだろうと思いました。「そんなの上手く行くの?」「失敗したらどうする?」「誰が責任を取るんだ?」とできない理由をあげるのではなく、「やってみよう、責任は私が取るから」と言ってくれるトップがいれば、現場は燃えますよね。

筑波大学の新しい動きは、これまでの学術情報流通に一石を投じた動きである点、積極的な動きをしている中国ではなく日本の国立大学がリードをとった点、英語一辺倒の論文出版に日本語という要素を入れた点、どれを見ても学術業界の片隅にいる者として大変な関心を持って見ています。そしてこの動きを受けて将来本当に学術出版の在り方が変わったら、歴史の始まりを捉えた雑誌として私たちの特集に注目が集まることを期待しています!

世の中のありとあらゆるものがオープンになりつつある時代。これはある種自然の動きだとは思いますが、これまでの学術出版業界の改革は遅々としたものでした。しかし新型コロナウイルス 感染症が一つの後押しとなり、この先の数年間で、F1000Researchや大学・研究機関など、これまでとは全く違ったプレーヤーが学術情報流通の分野で台頭する新時代がくるかもしれません。新しいことに慎重な日本の国立大学の中で、筑波大学がリスクを負って果敢に挑戦する姿を見て、大きな光を見た気がしました。この先の変化を楽しみに見届けたいと思います。


雑誌「ScienceTalks」の「オープンパブリケーション新時代がやってきた!筑波大学とF1000Reseachによるムーブメント」より転載。

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