なぜ科学と政治は、フェイクニュースに対抗するために物語を増やす必要があるのか
ケヴィン・パディアンは、人々を結びつけるための科学的なストーリーテリングの向上が、科学への信頼を築くのに役立つと信じる
- インタビュー
- April 4, 2023
インタビュー:加納愛
編集:ジェイコブ・P・バンホーテン
その分野の権威的存在であるにもかかわらず、ケヴィン・パディアン博士の人々に対する態度は気どらない。「日常生活に無頓着な教授」というステレオタイプを連想させる定番のぼさぼさヘアと、リラックスしたパーカー姿で気持ちよさげに椅子によりかかり、おしゃべりに興じる。しかしその控えめな見た目の下には、探究心にあふれる教育者としての鋭い知性が宿る。カリフォルニア大学バークレー校統合生物学の教授を務めるケヴィンは、飛行の始まりと獣脚類恐竜の鳥類への進化など、大進化の問題に焦点を当てた学術研究を行う。しかし、専門分野以外では、科学教育の改善を強く主張し、公の場での議論に参加している。学校における進化論と「インテリジェントデザイン」の教育を争点としたキッツミラー対ドーバー学区裁判では原告側の専門家証人を務めた。1990年代には、「カリフォルニア・サイエンス・フレームワーク」プログラムに貢献し、幼稚園から高校までの科学の教科書を見直した。2003年には科学普及の功績が認められ、カール・セーガン賞を贈られた。ケヴィンは「Narrative and ‘Anti-narrative’ in Science: How Scientists Tell Stories, and Don’t(科学におけるナラティブと“アンチナラティブ“:科学者はいかに物語るのか、あるいは物語らないのか)」など、200本近い科学論文を著している。アメリカ科学振興協会のフェローでもある。
ScienceTalksでは、サイエンスコミュニケーションに対する彼の考えと、コミュニケーションを改善することで、パンデミックで表面化した、社会の一部における科学への理解と信頼の欠如をどのように向上できるのか話を聞いた。
本記事は、2022年1月に実施したインタビューを、分量と内容に応じて編集したものである。
はじめに、あなたの経歴についてお聞かせいただけますか?
おかしな話なのですが、私が科学の世界に入ったのは、子どもの頃の科学教育がひどいと思っていたからなのです。当時、1950年代から60年代にかけて、アメリカとロシアが宇宙開発で競い合っていました。ロシアが最初の人工衛星を打ち上げると、アメリカは自分たちがすぐに遅れをとることになるだろうと気づきました。ロシアがもっているであろう科学教育プログラムを、アメリカはもっていなかったからです。当時、10歳、12歳、14歳、16歳の子ども達を対象に、厳格な科学教育を学校で始めようとしていました。その結果はさまざまでした。クレブス・サイクル(クエン酸回路)のような、非常に複雑なことをたくさん学びました。しかし、鳥やミツバチ、身の回りの環境についてや、地質、自分たちの住む地域がどのように成り立ってきたかなどということは習いませんでした。ものごとの仕組みや光合成など、非常に専門的で細かい科学ばかりでした。10歳や12歳では、そのようなものにはたいして興味をもちませんが、なぜ空が青いのか、ということなら知りたいと思うかもしれません。
いずれにせよ、私は科学を専門にするつもりはなかったのです。大学に入り、本当にすばらしい教授に刺激を受けたので、常に興味があったけれど一度も教えられたことのない分野を研究することにしました。それが、進化学やその関連分野です。私は心を奪われました。学士号を取得したあと、科学教育の学位を取りました。これまで自分が教わってきた方法より、もっと魅力的な方法で科学を教えたいと思ったからです。
数年後、科学の良い教師になるには科学知識が足りていないことに気づきました。それで大学院に戻り、博士号を取得したのです。その結果、高校教員にはなれませんでしたが、バークレー校で今の仕事を得ました。その過程で、研究やリサーチクエスチョンを好きになることができました。研究プロジェクトを実行する魅力は、研究を終えたあとにストーリーを語れる点です。人々に教え、かれらのものごとへの意識を高めることができます。研究と教育のキャリアを楽しむ特権を享受してきました。もちろん、教えることには、公教育のカリキュラムと、公の場での科学の品位に貢献することも含みます。
どうして進化学を選んだのですか? 例えば数学や物理学などと比べて、一般大衆の興味と関係があるからでしょうか?
植物生態学なんかも面白い分野ですね。植物生態学は大好きですが、宗教原理主義者からの攻撃を受けている分野ではありません。進化学の研究者らは攻撃を受けています。とくに、私たち古生物学者のように、進化の全体像を研究する人々は。かれらはその手のものが嫌いなのです。天地創造説論者や反科学者は、かれらが種とみなすものや神が創造した範囲内での変化は、ある程度受け入れるでしょう。しかし大きな進化は気に入らない。かれらが私を嫌う理由は、私がそれを研究しているからです。とくに、かれらが私の専門分野の問題に対して誤解を招くようなことを書いて、それを私が訂正するのが気に入らないようです。かれらは訂正されるのを嫌います。ただの意見の相違にすぎないという印象を人々に与えたいのです。
これは、とくにアメリカでは普通のことです。イギリスの出版人、アンドリュー・メルローズが言っていたと思いますが、問題は、我が国が2種類の植民者によって創設されたことです。1つは、宗教的迫害から逃れようとやって来た人たち。そしてもう1つは、宗教的な迫害から逃れて新大陸に到着するなり、今度は自分たちと意見を異にする人々を虐げる一派です。ジェファーソンなど、啓蒙主義の申し子たちがアメリカの「建国の父」となりました。彼らは非常に寛容で視野の広い、哲学的な方法で考えを書き残しました。そして、宗教のために迫害を受けてやって来たピルグリム・ファーザーズ。彼らは宗教的な社会をつくろうとしました。それ以来、アメリカでは大きな戦いが続いているのです。私たちは政教分離をうたいながらも、ほとんどの場合は信じていないと思います。
その結果、私の研究が攻撃されているのです。私の業績を通じて、宗教原理主義者たちは私の仕事がかれらの世界観に危険をもたらすと理解しました。これらのプロジェクトに携わる科学者たちも、化石記録のなかに過渡的な特徴をもつ動物を発見し、何百万年にもわたって新たな適応を身につけたことが示すと、それが脅威になると分かっていました。たとえば私の研究対象である、飛行のように。つまり、飛行というのは一大事なのです。進化するのは非常に難しい。アンチ進化学者たちは、そんなこと不可能だと言いたがるでしょう。けれど、実際には可能なのです。私たちはそれが実際に起こったことを分かっています。というのも、恐竜のような動物が鳥になる、という変遷を形態学的に見ることができますから。飛行がどのように進化したのかについてはさまざまな仮説があるものの、かなりのことが分かっていると思います。いずれにせよ、天地創造説論者はこのようなものをまったく気に入らないでしょう。
新型コロナウイルスのパンデミックの状況に関して、お考えをお聞かせください。ある意味、あなたと創造説支持者との対立は、医学者と、フェイクニュースやおかしな論を繰り出す陰謀論者との対立に似ているように思えます。
反ワクチンやその手の人々、あるいは科学を否定する天地創造論者の相手をするのは大変です。アメリカでは、全人口のおそらく30%ほどが啓蒙主義と呼ばれる人たちで、科学研究や科学的な理解について理性をもっています。そして約30%がキリスト教か他の宗教の原理主義者で、理性的なアプローチを拒否しています。重要なのは、反科学の人々や宗教原理主義者と公の場で議論しないことです。それをすると世界観が同列であることを証明してしまい、有効ではないからです。議論のどちら側にいたとしても、自分が信じる解釈とその理由、その解釈の前提となるルール、そして何よりも、もし自分が間違っている場合、どのようにその間違いを認めるのかを明確にしておく必要があります。科学者は他の科学者が間違っていると思ったらそれを伝える自由があるだけでなく、間違いを指摘することが職業的に推奨されており、義務でもあるのです。宗教とその他の世界観にはそのような制約はありません。誰でも好きなことを言えます。しかし科学者は常に、自分の間違いを顧みる方法を模索しています。もし自分がやらなければ、友人や同僚が喜んで間違いを指摘してくるからです。
全人口の残りの40%はその中間に位置しており、それらの人々こそ、私がターゲットとする層です。私がかれらに主張するのは、納得できる事象についてです。そのために私が知るかぎり唯一の方法は、私たちがどのようにして知識を得ているのかを語ることです。ここにある素敵な化石や植物、動物にすべての情報が含まれている。このようにに情報を得て、こういう風に仮説の検証をする。査読を経て出版し、かくして研究成果の合理性が(願わくば)認められる、と。そのような説得は、宗教に対してなんの計略ももちません。私の研究成果を拒否する人々を説得するつもりはありません。私たちのもつ知識、私たちの方法、私たちの考えを示したいだけなのです。
新型コロナウイルスで、多くの人々が新たな医学結果や政府の政策に戸惑ったため、政治に混乱が生まれました。新しい情報が分かるたびに方法論や助言が変わり、知的な不快感を感じる人々もいました。常に提案を変え続ける科学や医学を、どうして信用できるというのでしょう? 宗教はそれなりに不変の、変えることのできない信条に基づいていますが、科学はその正反対です。私たちは、常に知っていると思っていることを検証し、新たな発見を既存の解釈と比較しています。ときおり科学者は、なぜ、新たな証拠がこれまでの解釈に軌道修正を求めるのかを適切に説明できないことがあります。科学者は単に方法論や成果を説明するよりも、よいストーリーを話したほうが説得力があると思います。
私たちは科学において2種類のストーリーを語ります。1つは、自分たちの研究と科学そのものについて。もう1つは、私たち自身についてです。多くの場合、科学者が専門分野に興味をもった経緯を語ると一般の人は親近感を抱きます。たとえば偉大な教師との出会いだとか、面白いトピックを学んだこととか、そういった話です。私が科学に哲学的な魅力を感じたのは、それを検証することができると気づいたからです。文学や音楽のように、人々の信念や解釈のみに頼らないのです。科学は、社会全体が解釈し、理解しなければならないものでした。科学は、地域社会がつくった知識で、発展し、賛同を集め、修正されてきました。それが非常にかっこいいと思ったのですが、このコロナ騒ぎで、自分の研究を説明する研究者は苦労しています。かれらの仕事はすばらしいと思います。
また、多くのアメリカのメディアは本来の務めを果たせていないようにも思います。アンソニー・ファウチのように、できるだけシンプルな言葉で、一貫性をもって、真摯にものごとを説明してくれる人々がいます。これが今分かっている事実、これが仮説、これが皆さんに提案することで、その理由がこちら、というように。ときおり、新しいものが出てくることもあります。新種の変異株が出てきたり、感染者数が増加したり、人々がワクチンを拒否したり、あるいは動揺が広まったり。そうすると、メッセージも変える必要があります。それが科学のやり方なのです。証拠が増えれば、必要に応じて考え方を変えるのです。しかし、「専門家はつねに正しく、無謬の存在であるべきだ」と考える権威主義的な思考をする人々にとって、それは理解しがたいやり方なのです。「もし科学者が提案を変えるなら、かれらは無謬の存在ではないということ。そんな人たちをどう信用できようか?」と考える。これは至極当然な思考です。
新しい情報により生まれた混乱の一例を紹介します。パンデミック当初、マスクの数が十分でなかったころ、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)はマスクを買い占めないよう呼びかけました。指導者たちは、感染者の治療にあたる、感染の危機が非常に高い医師と看護師へのマスク供給を重視しました。再びマスクの供給が安定すると、次は一般大衆にマスクを買うよう呼びかけました。しかしメディアでは、より事情に通じていると思われるメディア通が「これは政策の転換だ」と放言しました。しかし、これは政策転換ではありません。新たな事象や情報に基づいて、アドバイスを修正したのです。以前は世界的にもっとも信頼の厚い医療研究所であったCDCの評判は、ドナルド・トランプ政権下で大きく毀損されました。私の知るかぎり、トランプはこの国の何十万もの死に責任があります。彼は世論調査で自分に悪印象を与えるパンデミックを望まなかったからです。この公衆衛生の悪夢は科学者の責任ではありません。
何年か前に、私の大学の偉大な言語学者であり雄弁家でもあるジョージ・レイコフが、ドナルド・トランプ報道について、真実のサンドイッチという概念を提唱しました。トランプの嘘を報道するとき、まずはトランプが言ったことを述べます。そしてそのケースの事実を述べたうえで、なぜトランプの発言が嘘なのかを説明するのです。それが真実のサンドイッチで、メディアは彼の大統領在任期間中、これをすべきだったのです。しかし非常に多くの場合、嘘と事実が知的に同等であるかのように振る舞いました。実際には違うのにです。人々はそのような意見や信念、行動を歓迎します。しかし、ワクチンは不要だ、全部デマだと言っていた人々が、コロナが重症化して病院に現れ、土壇場で改心した、という例は山ほどあります。
そして当時、多くの医療関係者や一般の人々が、そういう人たちにこう言いました。「あなた方の顔は見たくありせん。お帰りください。医師や看護師に感染させてはいけませんから。自分で選んだ結果でしょう。あなたのような人たちのせいで病院のベッドは満床なのです。臓器移植や癌治療、大手術が必要な人たちが、あなた方のせいで入院できないでいるのです」と。そのような反応はフェアでしょうか? あるいは合理的でしょうか?
最後に、「バランスのとれていること」が必ずしも「フェア」であるわけではないと認識すべきだと思います。母親の家の地下室に住む無教養なブロガーと、疫学者が、フィフティ・フィフティで報道されるべきではありません。ある問題について、それら2つの考え方が同等の重要性をもっているように扱うのは、大衆に対してフェアではありません。私の(偏見的だと自覚している)考えでは、ジャーナリストの機能とは、その時々の問題を評価し、複雑さを提示することだと思います。
バランスとフェアは同じではない、という話の流れで、とくにアメリカでは、ニュースを不必要に複雑にするジャーナリストもいるように思えます。なぜ科学者はメッセージを効果的に伝えることに苦労しているのか、ご説明いただけますか?
私の所属する部署は非常に精力的で、他部署の同僚達もすばらしいチームをもっています。この数年間、私が見てきたのは、同僚の多くが、自分と似た大学院生、師匠のクローンのような学生を生み出す傾向があるということです。つまり、かれらは科学を輝かしい新方向へと導く可能性があるのに、かれらの教授が成功を感じるのは、学生がその分野ですばらしい研究をし、学会に行き、論文を発表し、その分野に関する講演を行ったときです。私の同僚たちはむっとするでしょうが、あえて、それは独り言のようなものだと言いましょう。同じ分野を研究している数人を除いて、少しの影響力もないのだ、と。研究者がその重要性を述べなければ、だれも気にかけません。
すべては社会から与えられたものなのだから、自分の研究の重要性と面白さを伝える方法を身につける努力をして、社会に恩返しできたらいいと思いませんか。科学とは、実験室に入って、発見とともそこを出てくるものだとみんなに知ってもらいましょう。協力し、アイデアを思いつき、間違えてはアイデアを修正し、またテーブルに戻ってくる、という一連の発見のプロセスなのです。
私の同僚たちは、教え子が他大学で好条件のアカデミックポストを得ることこそ、本当にすばらしいことだと考えています。私もそれはすばらしいと思います。しかし、学生がジャーナリズムや科学出版、メディア、コミュニケーション、あるいは政府の世界に入ることも同様にすばらしいと思います。自分の研究分野に関する問題についての政府のアドバイザーとして、かれらは実際に人々に影響を与え、問題を改善し、世界最高峰の部門で得た考え方を提供するでしょう。そのような仕事が、指導教官の後に続いて相変わらずのありきたりな論文を100本生みだすことと比べて、重要性が劣るなどと言えるのでしょう? とは言え、過去10年間で私が見てきた嬉しい変化は、「科学と社会」の活動に関わり、一般の人々が科学とその重要性を理解する役に立ちたいと望む大学院生が増えてきたことです。
コミュニケーションを改善するために、科学のストーリーをどのように強化できると思いますか?
それは良い質問です。新型コロナウイルス感染症の場合、その責任は科学者というよりは臨床医にあると思います。科学者は実験室で働き、mRNAのような技術を開発し、コロナウイルスの追跡を行いました。それは大半の人には接点のないことです。先ほども述べたことですが、コロナ病棟で死の瀬戸際にたち、ワクチン接種を呼びかける患者の動画を、もっと見せた方が良いのかもしれません。それは重要なことです。また、医療従事者が直面する、虚脱感やストレスも見せるべきでしょう。かれらは仕事を辞め、自殺しています。PTSDに苦しんでいます。かれらは戦場にいるようなものなのです。そのような雰囲気のなかにいることがどのようなものなのかを臨床医達が語る動画が撮影されたら、人々の記憶に残るのではないでしょうか。かれらは、何年も前からの知り合いであったり、子どもが同じ小学校に通う同じ親であったりします。そのような話は、科学に関する客観的な議論ではなしえない効果を生むでしょう。コロナは科学だけの問題ではなく、心と頭の問題でもあるからです。
あなたの論文で、科学的・宗教的・世俗的という、知識の異なった領域についての議論があります。コロナは心と頭の問題だとおっしゃいましたが、これら3つの知識領域の役割としてはどのようにお考えですか?
何十年ものあいだ、宗教的な人々が宗教対科学の戦争について書いており、それを戦闘という比喩で捉えています。これは20世紀を通じて、アメリカで創造論者運動に共通するテーマです。科学の領域、宗教の領域、世俗の領域の人たちに、コロナ危機についてそれぞれどう考えているのか尋ねてみてください。科学は、感染症を防ぐためにコロナの仕組みを解明しなければなりません。政府や社会団体を含む世俗領域も、自分たちなりに問題を捉え、行動を調整するでしょう。しかし、このパンデミックのなかで、宗教領域が果たす役割は一切ないように思います。宗教が論じられるのは自分たちの教義だけで、他の知識についてはなにも主張することができません。
世俗領域で私が奇妙に感じるのは、政府の役人が今、宗教的な理由からワクチン免除を主張する人々に対応しなければならないことです。しかしワクチン接種を信頼しない宗教的な理由とはどのようなものでしょう? 私の知るかぎり、そのような主張を具体的に述べたり、あるいはほのめかしたりする一般的な宗教はひとつもありません。人々は個人の宗教的な信念を主張できますが、少なくともアメリカでは、それに限界があります。
たとえば、個人的な宗教により国に所得税を支払う義務を感じない、と言う人がいたとしましょう。そのような人には、「牢屋に入れられることになるから、せいぜいがんばって」と言うしかありません。現在、政府がワクチン接種を強制することはできません。しかし、接種を拒否する人を公の場から排除する権利はあります。たしかにそのような対応は反感を買いますが、病気や死には誰も近寄りたくないものです。この病気や変異株の経過について、分かっていることに基づいて予防策を講じるのは合理的です。我が国では、ワクチン未接種者も飛行機に乗れますが[このインタビューが行われた2021年初頭において]、すべての国がそうであるわけではありません。それは世俗領域が決めることなのです。
そのような状況での科学者の役割について詳しく説明してもらえますか? どれくらい国民は、具体的な指示や確かな真実を期待できるのでしょうか? 人々が科学界に期待できることについて、若干の混乱があるようですが。
たしかにそうですね。科学者にできることは、ファウチがやっているのと似たようなもので、人々に科学を説明し、感染や死亡を減らすためにもっとも賢明な方法を勧めるだけです。しかし独裁政権国家でないかぎり、国民に何かを強制することは困難です。中国ならある種の実効性をもってそのような措置をとれますが、それは例外です。大半の政府は、シートベルト着用義務や、車の右側(あるいは左側)通行、交通信号の厳守などを法律で制定することができます。公共施設内での喫煙を違法にすることもできます。しかし、それらの行為の結果はさまざまです。まず、公共施設内での禁煙を求めるのは、タバコの副流煙が他者の健康を害するからです。他者への影響があるのです。もし、道路の右側でも左側でも好き勝手に運転したり、赤信号で止まらなかったりすると、他の人々を巻き添えにします。あるいは、好きなように運転して、シートベルトを締めず、エアバッグもなしで、時速100マイルで衝突し、フロントガラスを突き破って、自分だけ大怪我することもあるかもしれません。そのようなことをする権利はあるでのでしょうか? 私なら「はい」と答えるでしょう。人には怪我をしたければする権利があります。しかし、それを公の場で行ったり、他者を危険にさらす権利はありません。
救急処置室の医師たちは、オートバイの運転手を「臓器提供者」と呼ぶことがあります。もしかれらが法律に反してヘルメットをつけずにどこかに衝突すると、頭部に損傷を受けます。それで死亡したら、無傷の臓器を提供することができるのです。そのような成り行きはオートバイ運転手の気分を害するでしょう。しかし当然ながら、かれらが死ななければ広範囲にわたる治療が必要となります。そのような治療に関わるすべてのコストをかれらが支払うわけではないので、医療システムに大きな負担がかかるのです。それに、医師や看護師は他の患者の治療にもっと時間をさけたかもしれません。
コロナでも同様の問題を抱えています。まず、喫煙者が副流煙を出すように、ワクチン未接種者も他者に悪影響を与えます。また、医療システムに重大な負担を強います。その負担には、インフラや、感染患者の治療費を補助する政府機関側のコストだけでなく、患者の治療にあたる勤勉な人々も含まれます。しかし患者はそのような社会的なコストに目を向けません。かれらが感染するのは、科学者が言うことが重要でない、自分たちには関係がない、あるいは、ワクチンは政治的なものだから抗議すべきだ、と思っているからです。
人間は、自分にとって重要な疑問について確信をもちたいものです。たとえばトンガで再び海底噴火が起こるのかどうか知りたいとしましょう。しかし誰にも分かりません。なぜ分からないのか、と人々は尋ねます。2021年12月11日、科学者はその海底火山は休火山だと見なしました。しかし1ヶ月後に噴火が起こりました。科学とは暫定的なものであり、構築されていくものであることを人々は理解しなければなりません。それは科学者の責任です。
科学は新しいアイデアや証拠を受け入れる、寛容なものだと言いたいです。しかし、それは頭がからっぽ、というわけではありません。私たちは何も知らない、ということではないのです。1つの事実を確実に知っているか、あるいは何も知らないかのどちらかだと考えられがちです。しかし私たちが知っていることは山ほどあります。ただ、今尋ねられている質問について100%の確信をもてないだけかもしれません。
アメリカや世界中の多くの国々の教育は、昔から権威的で、何を学ぶべきか、何が「真実」であるかを規定していました。しかし科学とは「真実」ではなく、その時点で得られる最良の答えであり、新たな証拠が出ると変わりうるものです。人々は、とくに困難な状況におかれると確実さを求めます。もし子どもが入院して、医師に今後どうなるのかを尋ねると、多くの誠実な医師は起こり得る結果を説明するでしょう。けれど、たとえ医師が正直に話しても、なかなか理解してもらえず、聞きたくないという人も多い。
コロナもそういう状況なのだと思います。人々は納得がいくまで明確な答えを求めます。一番良いのはワクチン接種で、それが全員のためになると伝えても、そのような答えを欲しない人もいました。
あなたの論文に話が戻りますが、科学を伝える通常の手段を「手放す」について触れられています。大衆の行動に影響を与えるという科学者の役割には限界があるかもしれませんが、人々に科学の成果を信頼したいと思わせるために、科学への興味を喚起するにはどうすればよいのでしょうか?
専門的な科学の出版物は、読みものとしてひどい可能性があります。私はそのようなものを、物語とは正反対のものとして、「アンチ・ナラティブ(反物語)」と呼んでいます。どのようにアイデアや仮説を検証したか、どのように思考を進めたか、A→B→C→Dという思考の発展を説明するのではなく、科学論文では、慣例的にZから始まり、E、F、G、Hと戻って方法論を記述します。それから問題提起のようなものがあり、突然、詳細情報に入ります。非常に乱雑なのです。実際にやったことやその理由を理解するのが本当に難しい。単なる結果の羅列のような印象を与えます。私たちの大学院課程では、研究のストーリーをどう語るかを教えることがあまりありません。そのようなアンチ・ナラティブを『ネイチャー』誌や『サイエンス』誌に掲載したいという欲求を手放す方法も教えていません。通常の方法を手放すには、アンチ・ナラティブの中身を取り出し、分解し、再構築して、人間的な要素を含む物語にする必要があるでしょう。
この手のストーリーテリングに関して私の知っているなかでもっとも良い例は、ティクターリクの化石を発見したチームの話です。グリーンランドで見つかったこのデボン紀の偉大な化石には、典型的な初期の水棲脊椎動物と、最初に陸に上がった動物のあいだに見られる、移行期の特徴が非常にたくさんあるのです。まだ陸上に上がれるような状態ではありませんが、陸上に行くための特徴がたくさんあります。つまり、それらの特徴により、何かをしていたこと、その場所に適応していたこと、周囲のものでできることをしていたことが分かります。
エドワード・デシュラー、ニール・シュバーン、ファリッシュ・ジェンキンス・ジュニアによる、この動物の発見に関する論文は美しくまとまっています。しかし発見の経緯やその動機に関する話はさらに魅力的です。ニールはそれについて語る動画をオンラインで公開していますが、科学的な報告書にはない詳細な内容に驚かされるばかりです。そのような移行期の種を探す場所をどのようにして見つけたのか、これまでの世界中の発見からなぜこの場所を特定したのか、とくに、ある年代と環境、特定の水深と複雑性を備えた場所を予測した、という話なんか最高です。そこで何かを発見できると期待したのです。それから、個人的な話に進みます。何年もかけて、何度もグリーンランドを訪れても何も見つけられなかったこと、最終的にある岩場を見つ作業を始めたのです。ホッキョクグマが現れた場合に備えて、チームの1人がライフルをもって現場の端で見張りをしていた話も紹介されます。
そして、採掘中のスティーブ・ゲイツィーが頭蓋骨後部の一部を発見しました。彼はそれが何であるのか気づきました。かれらはその生物の存在を予測しており、その化石を見つけたことで、科学予測の価値を証明したのです。それはただ出かけていって、適当に探すのではありません。古生物学者とは、トラックにつるはしとシャベルとビール箱を詰め込んで、何かが見つかるまで砂漠を歩き回るような人種ではありません。チームは何を探すかを確実に知っています。知らないのは、それが見つかるかどうかだけです。その動物の当たり障りのない単純な説明がどれだけ重要であっても、科学的な大仕事についての人間的な側面を人々に伝えることの方がずっと重要なのです。
ビル・クリントン政権時代、1994年の中間選挙で共和党が下院を掌握し、ニュート・ギングリッチを下院議長に選出しました。ギングリッチは、共和党議員の新たな顔ぶれたちとともに、連邦政府を解体するキャンペーンを展開しようと決意しました。削れそうな部門を精査するうちに、「役立たず」と思われる政府機関に焦点を定めました。
ここに、アメリカ地質調査所とNASAとの歴史的な対比が表れます。地質調査所は予算を削られたのに、NASAは比較的救われたのです。なぜでしょうか? NASAは偉大な仕事を成し遂げており、技術力を世界に誇る宇宙プロジェクトをもっています。他方、地質調査所は、地震、水質、鉱物、地殻変動、河川、洪水、堤防など、普通の人々の生活に実際に影響を与えるようなものを研究対象としています。では、違いは何なのでしょう? その答えは、地質調査所は自分たちの研究の重要性を伝える努力を怠ってきたのに対し、NASAは至る所で行ってきたことです。これこそ、自分の研究を公表することの重要性です。
20年ほど前、アメリカ国立科学財団から助成金を得ようとする研究者は、自分たちのプロジェクトについて、公の教育に貢献する要素を示すよう奨励されており、その観点を追求する人々が現れました。バークレー校の古生物博物館では、進化を理解するためのウェブサイトと、科学を理解するためのウェブサイトを立ち上げました。今では、気候変動を理解するためのウェブサイトもあります。このようなインフラを活用して、私たちはストーリーテリングの専門知識をアウトーソースできるようになりました。博物館スタッフが研究者と共同で物語をつくりあげ、研究者自身のサイトだけでなく、私たちのウェブサイトでも共有できるようにしているのです。ほぼすべてを外部からの助成金で賄う、教育・アウトリーチ活動を行っています。スタッフは一般の人々と積極的に交流し、地域とのつながり作りで重要な役割を果たしています。
おそらくもっとも有名な例として、あなたはドーバー裁判のなかで、生徒たちはケンタッキーフライドチキンを解剖して、とがった手羽先部分で個々の指の骨が合体し、翼を形成している様子を見るべきだとアドバイスしましたね。複雑な科学のアイデアを理解しやすい例に変換するためのヒントが他にありますか?
生意気なことを言っていましたね。けれど、手羽先部分を引き合いにだしたのは、鶏肉を食べたことのある人なら、過渡的な変化の証拠として分かるだろうと思ったのです。その裁判のあいだ、私の証言のいくつかのポイントは、一般向けの報道をするジャーナリストの興味をひこうと計画されたものです。
そして裁判の最後でわれわれの考えた最終尋問は、インテリジェントデザイン教育が子どもに与える害悪に関するものでした。私の回答は準備万端でした。私は「それは生徒を愚かにする。無知にする。科学とは何かということについて誤ったことを教えてしまう」と述べました。その言葉はまさに私が望んだ効果を引き起こしました。2005年当時、ネットで急速に広まることはまだありませんでしがた、その言葉があちこちで報道されました。裁判官までもが、判決文のなかでその言葉を引用したほどです。これがすべきこと、戦略的にやらなくてはならないことです。インテリジェントデザイン支持側は、自分たちの主張のために科学をゆがめようとする弁護士やレトリックの専門家、論説委員で構成されていました。かれらは何が起こっているのかについて誠実な説明を求めていませんでした。
私が「インテリジェントデザイン教育は生徒を愚かにする」と発言しても、ものごとを歪曲するわけではありません。それは真実なのです。科学に対して関心のない生徒をつくるでしょう。それは世界一の悪行ではないかもしれないが税金の無駄遣いではある、と言ったのが地域の人々の共感をよびました。
最後にもう1つ質問をさせてください。手短に言って、サイエンスコミュニケーションの向上が価値ある活動であることを、科学界全体にどのように納得させますか?
理想を言いたいところですが、私は現実主義者です。40年間教授会に参加してきたので、私の同僚達が間違いなくすばらしい人々であることは承知しています。教授会では肩を並べて座り、ある取り組みはすばらしいのでぜひとも実行すべきだ、と意見を一致させることができます。しかし会議後、研究室に戻ると、それぞれが日々の仕事に没頭します。現実的に言って、結果として自分たちの利益にならないかぎり、同僚たちは行動を起こすことも、動員されることもしないのが普通なのです。その結果とは、研究費や出版、学生支援など、かれらが望むもの、必要とするものです。これは組織的に考えて、十分に理解できることです。
もしサイエンスコミュニケーションの向上により、大学に寄付する人々からより多くの支援を得られることになれば、かれらもその意義を感じるでしょう。しかし、ここで複雑な問題があります。大学が寄付を集めるのは、研究者に資金を提供するためではなく、自分たちの資金を集めるためです。寄付に関するエコシステムはややこしいのですが、大学は寄付者へのアクセスをコントロールしたいのです。
だから、科学者はストーリーテリングを通して寄付者にアクセスする能力をもつべきなのです。開発企画室は、すべての部署が本当に資金援助から恩恵を受けるのかを測る能力をもっていませんし、寄付者側も大学や教室、研究室で起こっていることや、学生の様子を理解したいと思っています。寄付者側には未開拓の可能性がたくさんあります。開発企画室のスタッフが寄付者に見せたいと思うものだけを見せるだけでなく、もっと広い意味で大学で何を起きているのかを見せることで、より多くの寄付が集まると思います。そうすると、科学と科学者の物語が、より永続的な資金確保につながるでしょう。
ケヴィン・パディアンが推薦する参考文献
- Science Through Story
- ElShafie, S.J. 2018. Making Science Meaningful for Broad Audiences through Stories. Integrative and Comparative Biology 58(6):1213-1223.